(新)風邪だと思ったんですが。悪性リンパ腫闘病記

風邪だと思って病院に行って出された診断結果は『悪性リンパ腫』そこから始まった血液のがん、抗がん剤治療、副作用、不安な日々との闘い。 そんな私とその家族の日々を書き綴ります。

時はたゆまず流れる。

このブログを更新する様になるまで、長い時間がかかった。それは、ブログを更新するような精神状態では無かったからです。

 

1月の14日にブログを更新してから最近までとても永い辛いものでした。思えば寒い中震えながら更新をした事を覚えています。この間私は、抗がん剤治療を4回。放射線治療を25回終えています。その結果、私の中の悪性リンパ腫はどうなっているかと言いますと、、、。答えは分からないです。

 

何故分からないのか?

 

それは、、、。

 

医者が言うのです『分かりません』と。

 

再発時に脳の半分を占めていたがん細胞は、6月の造影剤MRI検査の結果を見るとその殆どが無くなりました。

 

医師の所見を見ると1.6mm程の何かが残っているそうです。

 

何か???

 

それががん細胞なのか?

 

がん細胞の跡なのか?

 

活動性があるがン細胞なのか?

 

活動性は無く死滅しているがん細胞なのか?

 

その答えが、、、

 

『分からない』そうなんです。

もう、訳が分かりません。私の今までの頑張りに意味がないと言われてるような気がしました。

 

このまま、ほったらかしにして活動が無いのを確認するのか?他の治療方法で完全に消滅させるのか?

 

本当に意味が分かりません。

 

肝心の医者が『分からない』と言うんですから、、、。

 

患者の私はもっと分かりません。

 

このままほったらかしにして、がん細胞だったらしきものの、活動が無いのを待つのか、それとも、待つ間に活動してまた、再発させてしまうのか?!

 

答えは、、、分からないです。

 

そして、7月の定期検診の時に医師が私に下した一つの提案が

 

『自家造血幹細胞移植』と言う治療法でした。

 

じか、、、ぞうけつかん、、、さいぼう、、、いしょく???

 

なんだそれ?!この長い入院中にそう言う治療をしている患者が何人かいらっしゃったので、言葉では、聞いたことありましたが、その内容は、全く知りませんでした。

 

詳しくは、こちらを⇩

造血幹細胞移植とは:[国立がん研究センター がん情報サービス 一般の方へ]

 

簡単に言いますと、先ず、大量化学療法『抗がん剤』でがん細胞及び血球などを破壊し、その後、薬品を使って血球値を上げて上がった状態の時に血液の細胞を採取しておき、その後、もう一度大量化学療法を行い、自力では、血球の値が上がる事が困難な為に予め抜いていた自分の血液を自分の体内に戻すと言う治療法らしいです。

 

これを書いている今でも、恐ろしいです。インターネットで情報を調べても、怖い情報が次々に出てきます。

 

先ず行う、大量化学療法というものも大量に抗がん剤を使用するために、抵抗力が落ちてしまい、あらゆる感染症に感染するリスクが伴います。私は、今までの治療の中で、幸いにも感染症になった事はありませんが、今までの治療とは違うという事を聞いているので、不安でしょうがありません。

 

抵抗力の低下、厚顔残治療後の造血幹細胞の採取が上手くいくのか、また、その後の大量抗がん剤療法を行う上で、また、感染のリスクが増えて、採取しておいた自分の血液細胞が上手く自分の体に適応しないなど、、、この治療法を知れば知るほど、不安は増して行きます。

 

でも、あの時にやっていれば良かった。出来るだけの事はやっておきたいという一心で私は医師のこの提案に賛成しました。その際に医師は何度も私の意思確認を行いました。

 

本当に良いんですね!と、何度も、、、。

 

その決断で良いんですねとも、、、。

 

私はその時『はい、、、。』と力なく答えました。決断したわけではない。私が、この悪性リンパ腫を根治する為には、もうこの方法しか選ぶ道が無かった。という事なんです。選ぶ余地は無かった、がん細胞を見過ごすのか?、ほったらかしで治ってたと安堵できるのか?、それとも、治療をする道があるならと、、、。正に苦渋の決断だったんです。

 

妻にも家族にも、娘にも、伝えました。

 

『今度の治療は、大変らしい。何があるか分からないから。俺は覚悟していると。』

 

娘にも伝えました。『パパ、今度の治療大変なんだ。頑張るけど、何かあったら、ごめんね。パパは〇〇の事大好きだよ!だから、絶対に頑張るから、応援してね』と。

 

娘は力強い眼差しで私を見据えて、『うん』と頷きました。

 

これで、私の腹は、括れました。(絶対に治してやる!!!)とあらためて思いました。

お盆中の8月15日私は新たな闘いの為に妻の運転する車で病院に向かいました。

 

命と根治を天秤に懸けた治療の為に・・・。

病院に着いて、通されたのは当然、無菌室でした。ここで先ず、約1か月の孤独な闘いが始まります。何事も起きませんように。そう祈って入りました。

頑張れ!私の心と体!!!とも、、、。

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最後まで読んでいただいてありがとうございました。感謝いたします。

 

 

新たな抗がん剤治療

GWが明けてしばらくして私は、悪性リンパ腫の治療の為にまた、入院をしました。

 

再発以来ここまで行った治療は、脳に腫瘍があるという事で、

脳の入り口にあると言われる脳血液関門と言う脳に菌などが入らないようにある門番を通りやすいと言われる抗がん剤を使った治療が主になります。

 

R-MPV療法を7コース(主な抗がん剤はリツキサンとメソトレキサート)

放射線治療25回(全脳照射)

HD-Ara-C療法2コース予定(主な抗がん剤はシタラビン)

 

再発当初の予定では、R-MPV療法5回で殆どの腫瘍は消滅するだろうから、とどめ的に放射線で根絶やしにするというものでした。でも、その結果は、上手くいかず、当初5回だったR-MPV療法を2回増やし7回にして放射線治療となりました。放射線治療の成果はどうだったのでしょう、、、。放射線治療中にも医師に訊きましたが、途中経過も結果も答えてはくれませんでした。結局、新たなシタラビンと言う脳内血液関門を抜けやすい抗がん剤を使う為の入院時に行われた造影剤という影が映りやすい薬剤を使ってのMRI撮影の結果を待つことになりました。

 

このシタラビンと言う抗がん剤は、血球の値がすごく下がるので感染に気をつけて下さいと何度も言われました。入院の予定は約1か月。やはりいつもより少し永めのようです。

 

GW明けの5月10日私は、新たな抗がん剤治療の為に入院しました。その治療方法の名前は、HD-Ara-C療法というものでした。ここで使うシタラビンと言う抗がん剤はここまでの15回に及ぶ抗がん剤治療でも使った事のないものでした。

 

病院に着き病棟に入ると、クリーンルームと言う無菌室に通されようとしました。

 

無菌室

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 つまり抗がん剤で体の中の血球の免疫細胞が破壊されるのであらゆる感染症予防の為に作られた部屋。(そんなに下がるのか・・・。そんなに壊されるんだ私の体・・・。)

このブログで何度も書いていますが、私は抗がん剤を治す薬ではなく壊す薬だと思ってます。この気持ちは今も変わっておりません。ガン細胞を破壊するために、良性で健康な白血球や血小板、赤血球(ヘモグロビン)なども一緒に破壊されるのです。

 

だから、抗がん剤治療が終了した後にそれらの数値を上げる薬品を皮下注射したり、輸血をしたりするのです。

 

無菌室・・・

 

私が部屋の前で入るのを躊躇して佇んでいると『〇〇さんのお部屋はこちらでした。』と別の部屋に案内されました。いつも通りの4人部屋でした。なぜそうなったかは分かりませんが、少しだけ知ってる環境になるという事で安堵しました。

 

そして、いつもの様に検査が始まります。心電図、レントゲン、血液検査。一通り検査が終わって病室に戻ると私はある異変に気付きました。

 

それは、ベッド脇に掛けてある担当医師と担当看護師の名札の欄に見覚えのある医師の名前ではなく初めて目にする名前が書いてあったからです。

 

(え!!!)担当の医師が変わったの?!なんで?!私は、見捨てられたのか?!

 

私は居ても立ってもいられなくなって、直ぐにナースステーションに向かいました。そこに医師も居るからです。すると、そこに担当医師だった医師を見つけました。

 

すぐさま、担当が代わったのか訊くと『はい。』と当たり前の事の様だと言わんばかりに返ってきました。そして、『よくある事なので』とも。私は、訳も分からない状態で部屋に戻り憮然としていました。看護師に尋ねてみても『よくある事ですよ』との答えでした。

 

どうやら、この世界では患者の気持ちやその拠り所はあまり重要視されずに患者にとっては当たり前だと思っていることが罷り通らない事が多くあるようです。まあ、よく医師と患者が揉めてるのも目にしてきましたから・・・。

 

まあ、そんなもんなんだしょうがない。私がどう思っていようが医師には関係ないんだ。頼るのは抗がん剤なんだし、医師は関係ない。そう言い聞かせました。

 

でも、、、。

 

医師の評価をする上で患者の病気を治すという治療成功率みたいなものあるとすれば、患者の精神衛生面から言ってもの医師の変更というものは、マイナスな要素しかないのではないかと思いました。

 

そんな事を考えてると、『○○さ~ん』と私の病室に新しく私の担当になった医師が挨拶に来ました。私は、多少の愚痴をこぼしながらも、もう決まった事。仕方ない。彼に任せよう。そう思いました。そして、私は両手を新しい若い男性の医師に差し出し、『先生!私のラッキーボーイになってくださいと』手を握り締めながら言いました。新しい医師に私の思いがどれほど伝わったかは分かりませんが斯くして、私の新しい闘いが新しいパートナーと共に始まりました。

 

大丈夫、大丈夫、大丈夫!・・・。そう言い聞かせながら。

 

この大丈夫、大丈夫、大丈夫は、娘が国語の教科書の音読で読んでいた一文です。ある晩聞いた娘が読んだ国語の教科書の中のこの一文が、これからも度々私に力をくれるのです。

 

入院して5日目ついに新しい抗がん剤治療HD-Ara-C療法が始まりました。でも、この療法は、今までの24時間6日間連続投与の抗がん剤治療に比べれば楽でした。抗がん剤の投与がほんの3~5時間程度で終わったのですから。副作用としては食欲不振、吐き気、悪心(胸のムカつきや吐き気の症状)嘔吐、腹痛、下痢、発熱、倦怠感、膀胱刺激症状、発疹があると言われました。

 

副作用は、他の抗がん剤同様患者の体調体質に大きく左右されるものと言うのはここまでの経験で分かってます。だから、私はこの中で経験したことのない副作用の下痢、発熱、発疹に警戒しました。

実際、この初めて抗がん剤を投与中に何か体が熱くなり、熱が37℃を越えてしまいました。

でも、ありがたい事にその症状も大した事なく熱もすぐに下がってくれたので事なきを得ました。不思議な事もありました。医師には下痢に注意してくださいと言われたのに逆に便秘になってしまって、毎日下剤のお世話になりました。それとしゃっくりが止まらなくなったりしました。でも、その都度医師にその事を伝え症状を抑える薬を処方してもらえたので、大きな副作用に悩まされることはありませんでした。

 

この入院はやはり中々血球の数値が上がって来ずに1か月ほどに及びました。この間特に大きな副作用が無かったのには、自分の体に感謝です。副作用よりもむしろ同部屋の患者の騒音(テレビの音や見舞客との大声での会話、病室での携帯電話の使用など)の方が悩ましい問題でした。本当に今までの入院生活の中で最悪な共同生活でした。何度も何度も看護師や医師に注意視されても改めない患者に呆れました。早く帰りたい。早くこの部屋から出たい。そう思いました。

 

ひょっとしたら、この思いが回復を少しだけ早めてくれたのかもしれません。こうして入院から1か月後妻の運転する車で病院を後にしました。この新しい抗がん剤治療の中で私の中で良かったと思える事は、放射線治療前から無かった食欲が戻ってきて、この入院中病院食を1か月間完食できたことです。やっぱり、この食というものが人間の体と心の大きな支えになってくれるのだとあらためて思いました。

 

この食欲が戻って来てくれてた事が最大の力の源だったと思います。あと、好きな音楽を聴く。若い頃に聴いていた曲をこういう状況の中聴いていたら、全く感じ方が違って聞こえるという事も新鮮でした。

 

若い頃に聴いてたラブソングで大号泣したり、励まされたり、中でも、大好きだった

B'Zの『月光』と言う歌は、当時は、隣に眠る恋人の事を歌っている歌だと思ってましたが、この時に聴いたら、、、(これは、愛する娘に対して歌った)歌じゃないのかと思いました。そして、夜中のベッドの上で大号泣してしまいました。以前はラブソングだと思っていた曲で大号泣するとは、思ってもいませんでした。同じ、B'Zのeazy come eazy go.と言う曲もラブソングだと思って聴いていたのに、この歌の歌詞がこの時の自分の心境にぴったりで、、、。特に『生涯最愛のものを手に入れるまで晴天ばかりは続かない。体が気付いてる。過ぎた時間は全てDESTYNY(運命)今の君を生んでくれた!という一説や』『昔卒業の寄せ書きに書いたことのある臭い言葉。逆境に挫けるなと今!自分に言い聞かせて~♬』と言う一説を聴いて、(正に、今の私の事だと思い)ベッドの上で大号泣してしまいました。他の患者に聴こえない様に必死にこらえながらも、思いっきり泣きました。そして、眠りにつき目が覚めたときに不思議な事が私の体に起こったのです。それまでは、抗がん剤の影響で骨髄で作られる血球を抑制されていたので中々、血球の数値も上がって来なかったのですが、この大号泣して、開けた朝から、腰の辺りが痛くなりました。ドックンドックンと脈をうつような痛みです。

この痛みは、骨痛と言って骨髄が血液を作る時の痛みです。

 

今迄、大人しかった骨髄が、ようやく活動を開始してくれた様です。ドックンドックンと、、、。この時は私は、やっぱり、心と体は繋がってる。

『心身一体』や仏教で言う『身心一如』や剣豪宮本武蔵が説いた『二点一流』とは、よく言ったものだと思いました。私が、歌を聴いて心の扉を開いたときにそれまで、気付かなかった体の変化や声に耳を傾けたときに、体が呼応してくれたことを感じた瞬間でした。

 

この経験から、私は、少しだけ今までの自分を振り返り、もっと自分の体の声を聞くべきだったと思い。これからは聞こう。もっと心の声を聞こうと思いました。その結果、みるみる辛かった。精神的な辛さが遠のいて行き気持ちが楽になり、自分を責める事も少なくなりました。

 

今の自分を認めてあげよう。流れに身を任せるのも時には、必要なんだ、もっと、自分の気持ちに正直に生きようとも思いました。

 

精神的にも随分と楽になり始めて、食欲もやっと戻って来てくれた、、、。

 

中々馴染めなかった病院食も美味しく感じるようにもなれました。

 

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この西瓜も甘くておいしかった。そう心の中から感じる事が出来ました。

ありがとう。私の体よ。ありがとう。私の心よ。

 

B'Zの曲を聴いて大号泣してからみるみる私の血球の値は上昇して、ついに採血検査の結果退院の許可が下りました。 

こうして、1回目の不安だったHD-Ara-C療法治療を終える事が出来ました

(少し安心したよ)妻が運転する車の助手席でそう思いました。

 

でも直ぐに2回目のこの治療が始まります。

今回の入院生活は、今までの入院生活でも感じた事の無い事を多く感じた入院生活でした。

 

心の声を、体の声を聞こうと思ったからでしょうか?そう思ったその日を栄に昼間でも夜でも、突然、私の中に『言葉や』『リズム』『歌詞』等が舞い込んでくるようになりました。

 

どんなに探しても検索しても出てこなかったものの名前や、歌、等が次から次へと舞い降りてきました。そしてその言葉や歌を聴いたり、見たりすると全てが今の自分に必要なものの様な気がしました。

 

これは、、、。天啓なのかとも思っています。だから、舞い降りた言葉には素直に従い、それと共に自分の心と体の声にも敏感に感じる事が出来るように心掛けました。

 

この新しい抗がん剤治療を行った今回の入院生活は、大きな不安を抱いて臨み、医師の変更などもあったり、同部屋の患者に対するストレスも大きく感じたとても快適な入院生活とは、言えませんでしたが、とても自分の今後に大切な事を感じさせてくれる入院生活でした。

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そして、家に帰って自室の扉にはこんなものが貼られていました。妻は娘がこれを貼っていた時に『そんなことしたらパパ大泣きするよ』と言ったらしいです。

私はこれを見たときに妻の予想通りにこの娘からのメッセージが貼ってある扉の前で大泣きしてしまいました。

 

そして、頑張ろう!!!頑張んなきゃ!!!

ありがとうと思いました。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

私の心を軽くしてくれたもの。

今回は、前回の精神的に最も辛かった頃から如何にして私が、今日まで過ごして来たかを綴って行きたいと思います。

 

切っ掛けは、知り合いの女性との立ち話でした。その女性は、ご近所さんで、私が家の前に居ると、私に気付き私の病気の事を気遣って下さって、私と家の外で出会って、立ち話をしました。その女性は、泣きながら私の話を聞いてくれました。そして、『私も頑張らないとですねと言い』『自分の息子がバンドで頑張ってるとも言っておられました』

 

(バンド?!)

 

『何と言うバンドですか?』って、私はそう訊きました。『ユアネスです。カタカナでユアネスです。』と彼女は言いました。その頃の私は、まだまだ、音楽など聴ける精神的状態でも無かったのですが、その時は、知り合いの息子さんのバンドの曲を聴くという小さな使命感の様なものを自分の中で何故だか感じました。聞いたバンド名を忘れないうちにと直ぐに自宅に戻ってyoutubeでそのバンド名『ユアネス』を検索して、半ば無理やり聴きました。

 

その時に聴いた彼らの曲『Bathroom』と言う曲は、どこか切なく懐かしく私の心に響きました。

 

でも、この行動が、後に大きな私の救世主となってくれました。

 

この時のyoutubeで音楽を検索するという行為で、私の掌の中のスマートフォンで私が今まで聞いた曲などの履歴などを久しぶりに目にしました。

 

私が聴いて来た音楽。つまり、辿ってきた道、、、。

 

ああぁ・・・。と何か似てる部分を感じました。

 

そして、色んな歌や曲を目にする度に

 

少しづつ聴くようになれて、

ああこの頃はそうだった。ああ、この頃は楽しかった・・・。と思ったりしました。

 

それが、元気になろう!あの時の様に・・・。と言う気持ちに。

 

希望を持とう、、、。あの頃の様に、、、。と。いう気持ちに。

 

この時の行動が、、、。つまり好きな音楽を聴く、好きだった音楽を聴くという行為が、少しづつですが、本当に少しづつですが私を救ってくれたのです。

 

そして、ふと、そう言えば・・・。と言う思いに駆られ更に心を軽くする為にある行動をとりました。

 

もっと昔はどうだったんだろう⁉️

 

今から30年前の話ですが。私は、当時中学2年生。ごく普通の何のとりえもない14歳でした。そして、その頃に姉の一言で、どっぷりと'80年代のアイドルにハマってしまいました。それまでは、アイドルの歌はおろか音楽や歌に全く興味ありませんでした。でも、ある夜に丁度姉が歌番組を観ていた時に『あんた。好きなアイドルとかいないの?!』と言われました。その言い方に、、、。ちょっとムッとしたことを覚えてます。

(じゃあ、好きになったるわい!)と反骨精神になったことも覚えてます。そして、偶然、熊本の夏祭りで数人の女性アイドルが訪れてそれを無料だったこともあり、観に行来ました。何の期待もなくただ友達に誘われたからと言う理由で、、、、。

 

でも、

 

なんの気もなく着いて行っただけだったんですがきっと純粋だった私は、ズッキューンと射抜かれました。

 

いとも簡単に射ぬかれた相手は、お隣の長崎県出身の相川恵理さんでした。2代目のロッテのCMのオーディションでグランプリになった方です。

 

失礼な表現ですが、田舎の中学校で垢ぬけてない同級生の女子と比べて、垢ぬけていて輝いていた彼女に私はこの時に一瞬で虜になりました。

その日を境に、当時は今の様に簡単に情報が手に入りませんでしたから、毎日、本屋に通い。彼女が載っている雑誌がないか血眼になって本屋中を探し回り、歌番組もラジオ番組もチェックしまくりました。

 

当然のことながら、知れば知るほど会いたくなり、九州内ならば、当時やっていた新聞配達の少ない給料を注ぎ込んで会いに行きました。あの時の輝き、ひたむきさ、会えた時の喜びは今でも鮮明に覚えてます。

 

そこから、色んな他のアイドルにもハマって行って、色んな所に行き、色んな活動にも参加しました。親衛隊とかですね・・・。ご存知でしょうか親衛隊というものを、、、。言わば、応援団のようなものでしょうか、あちこちで行われていたイベント等に大挙して足を運びそのアイドルの歌に合わせて拍手を送ったり、エールもしくはコールと言う曲に合わせて大声で合の手を入れるのです。(L・O・V・Eとか

C・U・T・E・などですね。)興味ある方は、youtubeなどで探してみると良いかもしれませんね。

 

河田純子さんと言う方の『輝きのスケッチ』と言うyoutubeの動画は、いきなりそのコールから始まって、一気にあの夏に戻れました。

 その映像と歌を観て聴いた瞬間にあの時に戻った気がしました。

 

あの頃の只々暑く眩しかった夏に、戻ったような気がしました。

 

この頃からか、歌を聴けるようになり、聴くようになり、家族との会話も増えて、少しづつですが散歩もするようになりました。

 

そして、少しづつですが、いつも責めてばかりいた自分を責めるのを辞めて、受け入れられるようになり、自分を俯瞰で、客観的に見れるようになりました。自分が、辿ってきた道全てが間違いじゃなかった。楽しかった時も嬉しかった時もあった。確かにあった。

 

私は、自分が聴いて来た曲を自分の過去と重ね合わせながら、それからどんどん色んな歌を探しに探して聴きまくりました。そして、迎えた抗がん剤治療の為の入院間近のGW(ゴールデンウイーク)。また、ひとつの転機が訪れます。

 

悪性リンパ腫の再発以来、家族との外出は皆無と言って良いほどありませんでした。でも、折角のGW。折角の退院期間と家族達の休みが合うタイミング。こんな事、そうは、無いかもしれません。

 

そんな、GW前のある日、 

妻が私に言いました。『今度一緒に娘と遊びに行こう』と。

言われた時は、体もきついし、精神的にもまだまだそんな気持ちには、なれないと思いましたが私の心が確かに言いました(行け!!!)(行かなくてどうする!!!これを逃がすな!!!大チャンスだぞ!!!)と・・・。

 

私は、この声に素直に(行く‼️)従い。近所のアミューズメント施設施設に家族と出掛けました。約半年ぶりに、、、。

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ボーリングしたり、卓球したり、テニスしたり、バッティングしたり、卓球したり、クレーンゲームしたり、娘と初めてビリヤードもしました。

 

お腹が空いてお昼には、近所のショッピングモールのフードコートで、たこ焼きを食べて、ピザを食べました。これも、久しぶりの事でした。そのピザの味。私が知る限り、娘にとってのピザは私がいつも作っていたピザの味だと思います。そしてこの時に、お店でピザを食べて娘が美味しそうに頬張って食べてる姿を見て申し訳ない気持ちになりました。

 

それは、精神的に辛くてずっと好きだった料理作りもずっとしていなかった。

しないというよりも出来ませんでした。

再発前までは楽しく、何作ろう、何食べようと楽しかった料理作りが、全くできなくなりました。作ろうとすれば、心臓がどきどきとして、息も早くなり胸が苦しくなりました。

精神的にとてもツラくなりました。

 

でも、その美味しそうに頬張る姿を見て作ってあげなきゃ。また、パパのピザを

お腹いっぱい食べさせてあげたいと思いました。妻ともお互いチーズたっぷりのピザを食べながら顔を見合わせ太りそうと嬉しそうに言い合いました。

 

そして、その時に決断しました。絶対に調子が戻ってきたら作ってやる!!!

 

私のピザをお腹いっぱい食べさせてあげたいと!!!

 

そして、よく通ってたアイスクリーム店に行き。家族みんないつものを食べました。

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この日は、父の日間近だったという事もあって、私はいつものラムレーズンと

『お父さんスペシャル』というものを頼みました。この時に娘が、お父さんスペシャルなのに、何度も何度も『オッサンスペシャル』と言ってたのを聞いて、これまた久しぶりに大笑いしました。

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この日、久しぶりに体を動かし、お腹と心を満たして私は、本当に久しぶりの充足感に包まれて眠る事が出来たと思います。

 

ここから数日後に始まる新たな抗がん剤治療の不安も大分軽くなって、、、。

 

本当に家族の存在は掛替えのない偉大なものでした。そして、素直にあの時の自分の心の声に素直に従った自分を褒めてあげたいと思いました。

 

あの時にあの女性と会って立ち話しなければ、あの時、音楽を検索して聴く事も無ければ、あの遠い夏にアイドル達にハマる事も無ければ、きっと、この家族との久しぶりのお出掛けも無かったでしょう。心の声が聞こえる事も、聴こえたとしても従うことは無かったのかもしれません。

 

入院前日の晩に事の繋がりというものに感謝しました。頭に浮かぶもの人との出会い、そして会話、頭に浮かんだもの。その全てには意味があって、今の自分に必要なものなのではないのか?と、、、。このような出来事を通じて更に強く思うように感じるようになりました。

 

そして色んな物、色んな事に感謝するという大事さにも

 

改めて大きく気づかされました。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

感謝致します。

 

 

私にとっての大きな決断。

今回の話は、2017年の11月に再発して、年が明けて3月の放射線治療が始まるまでの話です。

 

2017年の11月に悪性リンパ腫が再発して一番辛かった症状は、悪リンパ腫による痛みではなくて、

 

その再発によるショックと、この再発で、それまでは、出来てたことが出来なくなったショックでした。

 

そのショックが私を責め、心を蝕み再発箇所が脳内という事もあり記憶障害にもなりました。それほどの衝撃的なショックでした。

 

 今思えば、再発当初の夜中に夜勤担当の看護師に『ごめん。ちょっと手を握って良い?』と訊いて、『ハイ』と言われて看護師の手を握った後で自分のベッドを指さし、『今夜、ここで俺寝て良いの?』と訊きました。看護師は当然、狸に包まれたような顔をしながら頷き『ハイ。ゆっくりと休んでください』と言ってくれました。『そうなんだ。いいんだ。』と私はベッドに横たわり目を閉じたのを覚えてます。おそらく私は、その頃に自分の身に何が起きたのか理解出来ていませんでた。しようと思っていなかったのです。

 

いや、理解したくなかったのでしょう。永く辛かったそこまでの治療生活の全てがふいになって、再発してしまったのですから、、、。

 

毎朝、持って来られる朝食のお膳の意味すら分からず『何これ⁉️』『これ食べたら元気になって帰れるの⁉️』答えはNoでした。当然です。数日前救急車で緊急搬送去れてきて、ほんの数日後でしたから。

それから、暫くの間の記憶が抜けてしまいました。その時の担当医の『では、来週から3回目の抗がん剤の治療を始めます。』と言われるまでの記憶が抜けていたのです。

私は『へっ?!3回目?1回目2回目は、したんですか』と尋ねました。担当医は、『ハイ。憶えてないですかと』訊いて来ました。私は、『ハイ』と答えました。

そして、薬剤師の『しゃっくりが出て止まらなかったじゃないですか。でも、お見舞いで持ってきてもらった梨食べたらピタッと止まって笑ったじゃないですか』と言う一言で(あっ!!!確かに笑った。と思うまで、再発で救急搬送されてこの時までの記憶が無かったと言う実感さえ有りませんでした。)でも、それが切っ掛けとなり、その時の私の心のキャパシティを大幅に超える記憶が一気に戻ってきました。しかしその記憶は、私にとって喜びの記憶ではなく、悲しみ悲痛の記憶だったので、心が圧し潰されて、『鬱になりました。』入院前も社会復帰や自宅療養に慣れなくて自律神経失調症気味ではありましたが、この時は、ハッキリと鬱だったと言い切れます。

そこからの日々、日々・・・。辛かった・・・。そして永かった・本当に。本当に。

 

何でも、1回目の悪性リンパ腫の時と比べてしまい、以前の自分と比べてしまい、ふらつく体、震える指、楽しかった料理も楽しくなくなり、苦痛でしかなかった。Twitterにツイートすることも無くなり、家族の顔も見たくなかった。愛しいはずなのに・・・。

見ると辛かったから、一緒に乗り越えたはずなのに、また、しくじった自分が許せなくて、申し訳なかった。

 

責めた何度も何度も、何百回も何百回も、泣いた何度も何度も、病院では夜中にすすり泣き、家では一人、昼間に声を出して泣いた。

 

辛かった。永かった。

 

何も出来なくなった。じゃあ、いったんリセットしよう。娘と一緒に毎日、暗くなるまで自転車に乗れるように練習をした公園を無理やり歩きながら、出来ない事をやってても辛いだけだ。だから、無理なものは、リセットして、頼れるものには委ねよう。薬にも、医師にも、家族にも。

 

そして、睡眠薬をのんで寝て、精神安定剤も日に3度服用してました。特に朝起きてからあーまた病人の1日が始まると、薬をのみ、お昼は一人ぼっちかと薬をのみました。そして、子供が帰って来る夕方には何かしなきゃごはん作んなきゃと夕方症候群の症状まで出ました。このままじゃ俺死んじゃう。と思いました。家族さえいなければと思ったり、何処にロープをかけようかとか、、、、。

 

でも、娘が悲しむ姿が見えたんです。何度も何度も大声で泣き叫んでる姿が‼️

 

だから、その存在の為に出きることを考えました。だから、心の負担を全部一旦消し去りリセットしようと。

 

そう決断した。

 

そして、ライフワークのつもりで始めたブログ『Make the style orenge lamps.Blog』と言う大事な大事な我が子の様なブログを閉鎖した。この決断は、本当に我が子を消し去るような辛い決断だった。あんなに楽しかった初めて作ったカンパーニュ作りや初めて作った自分専用の椅子作り。その全てをこの手で消さねばならないという悲しさ、切なさ。

 

辛かった本当に。

 

でも、あのまま続けていたら、私は今ここには居ないかもしれない。あの決断は、良い決断だった。いつでもそうだった。自分で決めて、自分で答えを探しながら歩み、そして、結果を知る。いつもそうだった。幸いな事にこのPCに記憶は残る。データとして。会いたきゃこのPCが壊れない限り会える。

 

入院中に大泉洋さんと原田知世さんの映画『しあわせのパン』を観て作りたく、食べたくなったカンパーニュ作りも発酵籠の存在すら知らず、自分でA4のコピー用紙を丸めて編んだ発酵籠作りから始まった。

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柿渋塗って

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初めて焼いた。家族みんなが喜んでくれて嬉しかった。娘もこのパンのお陰でガーリックパンの存在を知り大好きになった。

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私専用の椅子づくりもイメージのスケッチから始まって、

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娘とホームセンターに材料を買いに行って、正しい木材の選び方を伝え

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作った

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一生懸命塗るのを手伝ってくれて

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完成した。悩んだ色も・・・。ジャパンブルーと言われる。藍色。浄化と言う意味もあるらしい藍色にした。

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そして、腰を下ろしたときに感じた、達成感と充足感と満足感は今でも忘れない。

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でも、、、。

 

でも、、、、、。

 

でも、、、、、、。

 

こんな思い出も全て、消し去ろうと思った。この時の感動も何もかも、娘との思い出も消え去れば良いとさえ思った。

 

そして、ついに私は、make the style オレンジランプの日常と言うサイトを閉じた。

 

ごめんね。ごめんね。ごめんね。と泣きながら。

 

誰にも知らせずに誰にも言わずに、、、。

 

静かにこの世から消した。

 

でも、無理だった。あの精神状態で、元気に生きようという気持ちにもなれなかったし、全てがどうでも良くなった。全てが無駄に感じた。愛したもの。信じたもの。自分の中の希望、輝きさえ

 

無駄だと思った。

 

だから、だから、だから。

 

多分この気持ちは私しか知らない。理解できない。分かるわけがない。

 

でも、でも、でも、、、、。

 

どうしても、どうしても、あれ以上の継続は出来なかった。閉鎖から約半年が過ぎた今、あの決断は、、、。間違いじゃなかったと思いたい。

 

何故なら、今こうして生きているから。

 

あのまま、続けてたら、無理に自分は元気だって主張してたら、、、。

 

もう居ないかもしれないと思う。

 

ありがとうと言いたい。楽しかった。あのサイトのお陰で私は、私の中で輝いていた。

 

誰にも分かるまい。分からないと思う。

 

誰にも誰にも誰にも。

 

きっと、ずっと、ずっと・・・。

 

これがずっと、心の奥深くに仕舞ってた事。誰にも知られず、誰にも言わず、自分でさえも無理やり忘れようとした事。

 

それほど、再発は、、、再発は、、、。

 

辛かった。本当に辛かった。

 

この後私は、放射線治療に向かいました。大きな迷いと不安を抱えながら。

 

 

これは、どうしてもここの読者の皆様にどうしても伝えたかった事です。知って欲しかった事です。

 

なぜ、更新が滞ったのかを。

 

なんだかスッキリしました。

 

ありがとうmaike the orangelamp styles.

 

この事を告白する日が来るなんて、、、。

 

こんな日が来るなんて思いもしませんでした。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

 

 

 

 

新たな放射線治療の副作用

新たに私の身に降りかかった副作用

 

それは、脱毛である。確かにこの病気になって抗がん剤治療が始まった2か月目位から全身の毛と言う毛が脱毛し、全て無くなった。でも、抗がん剤治療が終わって2か月目頃から新しい毛が生え始めて、髪の毛も以前の硬い直毛から柔らかいソフトな毛質の髪の毛が生え揃ってくれていた。なのに、、、。この放射線治療を行った事によって、その折角生え揃った毛も、ごっそりと抜け落ちるようになった。

 

ショックでした。

 

一度は経験したとはいえ、ショックでした。

 

確かに放射線治療前に放射線が当たる場所に円形脱毛症が出来るという事は聞いていた。

 

でも、私の場合は、頭全体に放射線を照射する全脳照射と言われる治療をしていたのだ。だから、頭全体の脱毛が始まった。ごっそりと、、、。

 

お風呂に入ってごっそりと手に絡みつく無数の髪の毛、、、。悔しくて泣いた。

 

『折角生えて来てくれたのに。ごめんね。』そう言って泣いた。

 

しかも、全部綺麗に抜けてる訳では無く、あくまでも放射線が当たった場所だけ抜けているのである。当たってる場所、、、。

 

前頭部、頭頂部、後頭部、、、。

 

だから、当たっていない、もみあげ、襟足は抜けなかった。その結果、今の私のヘアースタイルはこんな感じになっている。

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はっきり言って、落ち武者だ。妻も娘も外に行くときは帽子を被ってって必ず言うようになった。『剃ればいいのに・・・。』そうも言われる。

 

でも、私が放射線治療が終わって経過観察の時に病院の売店に行った時、帽子を被り忘れ売店の定員さんに『変な髪型でしょう?!放射線治療したらこんなになっちゃいました』と照れ隠しに言ったら、『何でですか?放射線治療を頑張られた証拠じゃないですか!』と言われた。『そうですか!ありがとうございます。』私はそう言って涙ぐんだ。

それからというもの私はこの髪型に誇りを持っている。ありがとうございます!あの一言に救われた。

 

まあ、帽子を被り忘れてスーパーとかに買い物に行ったら、すごく凝視されるんで、そこはちょっと嫌ですけどね。特に子供なんかは、指を指さんばかりに見てきます。そんな時は、心の中で『おかしいでしょ、、、。おっちゃんでもこれは頑張った証拠なんだよ❕』

 

放射線治療前は、特に副作用とかは無いよと患者仲間から聞いていましたが、私にとっては、全くそんなことはありませんでした。まあ、今思えば放射線を何処に照射するかによって副作用が多い場合と少ない場合があるのだろうと思います。
 
私が放射線治療全25回で感じた副作用は、、、
 
食欲不振、脱毛、耳垂れ(耳の中から耳汁みたいなのが出て来る。)、頭皮や耳の皮膚が角質のように固くなりボロボロと崩れ取れるようになった。その量は小学校の時に国語の授業で習ったお爺さんとお婆さんの垢で作った垢太郎が出来そうな量でした。
 
医師に相談すると強くは擦ったりしない方が良いと言われたので、お風呂に入る度に軽く垢すりのナイロンタオルで洗っていたのですが、そのナイロンタオルがすぐに目詰まりするほどの量でした。
 
取れてしまえば、つるっつるのてっかってかの肌になっていましたが、本当に毎回、お風呂に入るたびにその量にビックリしました。
 
それ以外の副作用は、強い倦怠感、疲労感です。放射線治療は月曜日から金曜日まで毎日行いました。特に金曜日になると病院まで通っているという事もあったんでしょうが、へとへとになって動けませんでした。この時期は病院から帰って来て流しにたまった食器を洗い、頑張ったねお疲れ様と精神安定剤をのんで横になる。そんな風にして何とか凌いでました。本当に精神的に辛くて、早くこの嵐よ過ぎ去っておくれと思ってました。
 
そして予定通り4月11日に25回目の放射線治療を終えました。
 
(やっと終わった。)頑張ったねお疲れ様と自分に何度も言いました。そして、
 
この時の副作用の多くも、放射線治療の終了と共に改善しましたが、髪の毛だけは、中々生えてきませんでした。医師に相談すると、最初は、2,3か月で生えてきますと言っていたのに、それを過ぎても生えてこないと訴えると『中には生えてこない方も居ます』
と答えられました、、、。この言葉には開いた口が塞がりませんでした。
 
(うそつき!生えて来るって言ったじゃん)別に医師が悪い訳では無いのですが、この時はそう思いました。この時から今でもずっと私は寝る前に頭を撫でながら、(がんばれ!がんばれ!生えてこい生えて来てください。)と言いながら寝ています。
まだまだ、体のいろんな部分に頑張ってもらわなければなりません。
 
脱毛や角質と格闘しているうちにGWがやって来てそれが過ぎれば、また、入院して新たな抗がん剤の治療が始まります。もっともっと頑張らなければいけません。
 
最後まで読んでいただいてありがとうございました。