(新)風邪だと思ったんですが。悪性リンパ腫闘病記

風邪だと思って病院に行って出された診断結果は『悪性リンパ腫』そこから始まった血液のがん、抗がん剤治療、副作用、不安な日々との闘い。 そんな私とその家族の日々を書き綴ります。

新たな放射線治療の副作用

新たに私の身に降りかかった副作用

 

それは、脱毛である。確かにこの病気になって抗がん剤治療が始まった2か月目位から全身の毛と言う毛が脱毛し、全て無くなった。でも、抗がん剤治療が終わって2か月目頃から新しい毛が生え始めて、髪の毛も以前の硬い直毛から柔らかいソフトな毛質の髪の毛が生え揃ってくれていた。なのに、、、。この放射線治療を行った事によって、その折角生え揃った毛も、ごっそりと抜け落ちるようになった。

 

ショックでした。

 

一度は経験したとはいえ、ショックでした。

 

確かに放射線治療前に放射線が当たる場所に円形脱毛症が出来るという事は聞いていた。

 

でも、私の場合は、頭全体に放射線を照射する全脳照射と言われる治療をしていたのだ。だから、頭全体の脱毛が始まった。ごっそりと、、、。

 

お風呂に入ってごっそりと手に絡みつく無数の髪の毛、、、。悔しくて泣いた。

 

『折角生えて来てくれたのに。ごめんね。』そう言って泣いた。

 

しかも、全部綺麗に抜けてる訳では無く、あくまでも放射線が当たった場所だけ抜けているのである。当たってる場所、、、。

 

前頭部、頭頂部、後頭部、、、。

 

だから、当たっていない、もみあげ、襟足は抜けなかった。その結果、今の私のヘアースタイルはこんな感じになっている。

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はっきり言って、落ち武者だ。妻も娘も外に行くときは帽子を被ってって必ず言うようになった。『剃ればいいのに・・・。』そうも言われる。

 

でも、私が放射線治療が終わって経過観察の時に病院の売店に行った時、帽子を被り忘れ売店の定員さんに『変な髪型でしょう?!放射線治療したらこんなになっちゃいました』と照れ隠しに言ったら、『何でですか?放射線治療を頑張られた証拠じゃないですか!』と言われた。『そうですか!ありがとうございます。』私はそう言って涙ぐんだ。

それからというもの私はこの髪型に誇りを持っている。ありがとうございます!あの一言に救われた。

 

まあ、帽子を被り忘れてスーパーとかに買い物に行ったら、すごく凝視されるんで、そこはちょっと嫌ですけどね。特に子供なんかは、指を指さんばかりに見てきます。そんな時は、心の中で『おかしいでしょ、、、。おっちゃんでもこれは頑張った証拠なんだよ❕』

 

放射線治療前は、特に副作用とかは無いよと患者仲間から聞いていましたが、私にとっては、全くそんなことはありませんでした。まあ、今思えば放射線を何処に照射するかによって副作用が多い場合と少ない場合があるのだろうと思います。
 
私が放射線治療全25回で感じた副作用は、、、
 
食欲不振、脱毛、耳垂れ(耳の中から耳汁みたいなのが出て来る。)、頭皮や耳の皮膚が角質のように固くなりボロボロと崩れ取れるようになった。その量は小学校の時に国語の授業で習ったお爺さんとお婆さんの垢で作った垢太郎が出来そうな量でした。
 
医師に相談すると強くは擦ったりしない方が良いと言われたので、お風呂に入る度に軽く垢すりのナイロンタオルで洗っていたのですが、そのナイロンタオルがすぐに目詰まりするほどの量でした。
 
取れてしまえば、つるっつるのてっかってかの肌になっていましたが、本当に毎回、お風呂に入るたびにその量にビックリしました。
 
それ以外の副作用は、強い倦怠感、疲労感です。放射線治療は月曜日から金曜日まで毎日行いました。特に金曜日になると病院まで通っているという事もあったんでしょうが、へとへとになって動けませんでした。この時期は病院から帰って来て流しにたまった食器を洗い、頑張ったねお疲れ様と精神安定剤をのんで横になる。そんな風にして何とか凌いでました。本当に精神的に辛くて、早くこの嵐よ過ぎ去っておくれと思ってました。
 
そして予定通り4月11日に25回目の放射線治療を終えました。
 
(やっと終わった。)頑張ったねお疲れ様と自分に何度も言いました。そして、
 
この時の副作用の多くも、放射線治療の終了と共に改善しましたが、髪の毛だけは、中々生えてきませんでした。医師に相談すると、最初は、2,3か月で生えてきますと言っていたのに、それを過ぎても生えてこないと訴えると『中には生えてこない方も居ます』
と答えられました、、、。この言葉には開いた口が塞がりませんでした。
 
(うそつき!生えて来るって言ったじゃん)別に医師が悪い訳では無いのですが、この時はそう思いました。この時から今でもずっと私は寝る前に頭を撫でながら、(がんばれ!がんばれ!生えてこい生えて来てください。)と言いながら寝ています。
まだまだ、体のいろんな部分に頑張ってもらわなければなりません。
 
脱毛や角質と格闘しているうちにGWがやって来てそれが過ぎれば、また、入院して新たな抗がん剤の治療が始まります。もっともっと頑張らなければいけません。
 
最後まで読んでいただいてありがとうございました。

放射線治療の副作用。

ここからは、2018年3月7日に始まった。私の放射線治療の記録です。

放射線治療が始まるまでに感じていた不安は、一回目の治療が終わると消えていた。それぐらいあっという間に終わったからだ。

 

でも、2回目3回目と繰り返すにつれて新たな不安が現れた。いつも決まった時間。決まったバス停。決まったバスに乗って病院に向かうのだけど、前日の記憶がない。

毎日、何処で乗ったけ?何時のだったっけ?こんな調子で、何度も何度もスマホのスケジュールとメモ帳をのぞき込んだ。これは、今思えば、放射線治療の副作用と言うよりも不安からくる虚ろな状態なんだと思う。全てが霧の中にあって、自分だけが孤立しているような感覚。そんな中で本当の副作用がやって来た。一番最初に出たのは頭全体がヒリヒリとして痒くなった。私の場合、腫瘍が頭にあるので放射線を頭全体に照射する全脳照射と言う治療を行っていた。放射線科の医師に相談するとステロイドのスプレーを処方された。それを頭全体に日に2,3度かけて下さいという事だった。この薬のお陰でこの症状は治まったものの新たな副作用が出て来た。それは、、、

 

食欲不振である。

 

この病気が発覚したきっかけも家族で食べに行ったとんかつをひと切れも食べれなかった。事でおかしいと思って病院に行ったのが切っ掛けだった。(その時の医者は風邪ですね)と言ったんだけど、、、。

 

話を戻すと、食欲不振。この放射線治療前に抗がん剤治療の為に入院してた時も吐き気が酷くて食べれない時期が続いた。

 

でも、それとは違う。

 

お腹が空かない。この時にお腹がすくって何だっけ?とツイートしたのを覚えている。

何か食べなきゃと思っても喉を通らない。治療前におにぎりとサンドイッチを買って食べても嗚咽が出る。

 

食べなきゃ食べなきゃ食べなきゃ!!!

 

この事を家族にも伝えたし、医師にも相談した。看護師にも。他の患者にも。

 

でも、誰も私の症状を抑える答えをくれる人は居なかった。医師は、皆さんそうですが、暫くすれば慣れます。と言い看護師は何でもいいんで食べれるものを食べましょうと言われた。他の患者は、普通に食べれると言い、

 

私は悩んだ。毎日毎日。

 

食べなきゃ食べなきゃ食べなきゃ、、、

 

晩ごはんは辛うじて吐き気止めを妻に見られないように隠れて飲んで食べた。と言うか押し込んだ。

 

朝とお昼ご飯は、全く食欲がわかなかった。

 

このままで良いのだろうか、食べなきゃ体力もつかない。食べなきゃ、、、。

 

私の気持ちとは裏腹に放射線治療の回数は重なって行く5回、10回、15回、、、と

 

そして、血液内科の外来受診の日が来て常用薬処方箋をもらった。

 

放射線治療が始まって2週間が過ぎた頃その処方箋を持って、近所の薬局に薬を取りに行った。

 

ここに、この時の私にとっての救世主が居た。

 

それは、この近所の薬局の薬剤師だった。以前からよく話をしていた方で『体調はどうですか?!』と訊かれたので『体調は良いんですけど、食欲がないんです』と訴えた。

 

その薬剤師は、『そうなんですか?朝も昼も夜もですか?』と訊き返す。

『はい』と答える私。

『○○さん。ひょっとしたら、朝ごはん。お昼ご飯。夜ご飯って一日3回食べなきゃって思ってないですか?』と訊かれた。

『はい。』私は当たり前じゃんと言う感じで答えた。すると、薬剤師は『一日3回じゃなくても良いじゃないですか!』と言った。

 

へっ???!!!

 

私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。まさに目から鱗そんな発想は無かった。薬剤師が続ける『朝、昼、晩一日3度って思うから、食べなきゃって思うから食べれないのかもしれませんよ?』薬剤師は真剣な表情で私にそう言った。

 

そして、『日に3度じゃなくても良いじゃないですか。5回でも6回でも。』と続けた。

私は(イヤイヤ食欲がないって言ってるじゃないですかと思った。)

まだ、薬剤師の言葉が続く。『日に3度。日に3度食べなきゃって言う思いが自分に負担をかけて精神的に食べれないのかもしれませんよ。3度じゃなくても一口ずつほんの一口ずつでも良いじゃないですか。その一口が次の一口を食べようっていうエネルギーになるかもしれないじゃないですか。』

 

そうか!!!これだ。多分この時の私はずっと欲しかったおもちゃを手に入れた子供の様に目を輝かせていたに違いない。

 

『確かにそうですね。その考えはありませんでした。私は自分に強迫観念をかけていたのかもしれません。早速、試してみます。』

 

そう言って、薬局を後にして、お昼ご飯から一口作戦が始まった。

 

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(大丈夫。食べれるだけ。残しても良い。少しで良いんだ。)その日から自分にそう言い聞かせての日々が始まった。夜ご飯も妻に少しで良いよと言い。朝ごはんは食べない。お昼ご飯は、病院のコンビニでおにぎりをひとつ。食べれない時には遠慮なく残した。そうして、1週間が過ぎようとした時に病院の帰り道(お腹が空いたなぁ~)と久しぶりに思った。そして、近所のお弁当屋に入りタルタルソースたっぷりのチキン南蛮弁当を注文した。

『お待たせしました。』と呼ばれると店内のイートインスペースで開けた。

『美味そう~』口の中に涎が充満した。そして、一口。

 

『美味い!!!』そして涙ぐんだ。(たべれるじゃん。美味しいじゃん。)大丈夫食べれる。おいしい。

 

その日を境に食欲が少しずつ戻ってきた。魚は生臭くって食べれなかったけど、夜中に布団の中に入って明日、また、チキン南蛮食べようと思うと涎がジュンと口の中に広がった。何故、この時食べたいものが油っぽいチキン南蛮だったのかは、分からないがこの弁当と薬剤師に救われたのは間違いない。

 

でも、副作用以外にも辛いことは沢山あった。それは、健康な家族の中に混じって、病気療養中の私が共に生活すること。

 

健康な家族は、普通に出かけ普通に食べて、普通に寝れて、普通に起きれる。私にはその全てが普通ではなく、自分の意志では出来なかった。寝るのも眠剤に頼り、食べる時も吐き気止めを飲み、起きる時も眠剤の効果が残っているのでなかなか起きれなかった。出歩くことなど皆無で。朝起きて病院に行き、放射線治療を終えて家に帰り、お昼を少しつまんで、残っている茶碗を洗い、精神安定剤を飲んで横になる。そうこうしてると娘が学校から帰ってきて騒ぐ。TVをつけてアニメを観る。この時期に娘に怒鳴ったのは1度や2度じゃなかった。今迄、こんなことは無かった。『お願いだから静かにして。お願いだからゆっくりさせて。』何度言ったか分からない。それだけ私には心に余裕がなかった。出来るだけ穏やかに出来るだけ自分にストレスを掛けないように、時を過ごした。そして、全25回の全脳照射の放射線治療を終えた。

 

辛かった。本当に辛かった。入院じゃないのに自宅から通いで治療しているのに辛かった。家族が出かける度にお腹いっぱい料理を食べるのを見る度に私は、自分が病人であるという事を思い知らされた。

 

でも、家族は悪くない。一片も悪くない。家族は当たり前の生活をしているだけで、私がそれを出来ないだけ。元気になんなきゃ!早く元気になんなきゃ!その思いを日々強く思った。

 

そう言う日々が続きながら4月の11日に全25回の放射線治療が終わった。

 

『頑張りましたね。これで放射線治療は終了です。』放射線治療の医師からそう告げられた時は本当に嬉しかった。

 

(おわったんだ。頑張ったな俺)

 

しかし、この放射線治療の途中経過、結果は、次の血液内科の入院を待たなければいけないのがもどかしかった。

 

そして、その間に新たな副作用が私の身に降りかかった。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

いよいよ放射線治療開始。

今年の3月7日。いよいよ予定していた放射線治療が始まりました。抗がん剤治療は何度も経験しているので不安は少ないんですが、放射線治療は初めてなので不安で不安で仕方ありませんでした。

 

不安のひとつは、放射線治療を受ける為に自宅から毎日、バスに乗って通うこと。しかも乗り継ぎをしながらです。

 

そして迎えた放射線治療の初日。バス停に向かうと、、、私が乗る筈だったバスが出発していきます。初日の出だしでこの有様です。前の晩に行先も路線も時間もしっかり調べてメモしていたのに、バスの後姿は遠ざかって行きました。仕方がないので、私はすぐさま次の乗り継ぎのバス停までタクシーに乗って移動しました。余計な出費です。でも、このタクシーの運転手さんが『私は料理が好きなんですよ~』仰ったので、到着までの車中は、二人ともピザやハンバーガーの作り方ホットドッグーの作り方の話が出来たので少しだけ和めて結果オーライだったかなって思いました。

 

そして無事に病院に着き、地下にある放射線室に向かいました。壁も廊下も天井も明かりさえも何か暗く感じて私の心と体を押しつぶしているような気がしました。

 

受付を終えて待合室で座っていると暫くして私の名前が呼ばれました。いよいよ、放射線治療が始まります。大きな丸い筒の様な放射線を発生する装置の前のベッドに横になります。すると、技師が2人やってきて私の頭に予め型どりをしていた装具をパチン、パチンと停めていきました。首はおろか頭を1cmも動かせません。キチンと放射線をがん細胞に照射させる為に頭を固定しているようです。

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その装具は完全にデスマスクそのものです。この装具の取り付けも怖かったです。何故なら、私は閉所恐怖症なのです。この病気になるまでは気が付きませんでしたが、度重なる閉所での検査のせいなのか分かりませんが、いつの間にか閉所に不安を覚えるようになってしまいました。特に自分が吐いた息が自分に帰ってくるような場合は特に大きな不安に襲われます。このマスクを装着すると息が返ってくるどころじゃなく口では息が出来ません。花にかろうじて穴が開いているので窒息はしませんが、これがまた、私の不安を煽りました。

 

そして、このマスクでがっちり装置のベッドに固定されて放射線治療を受ける訳です。

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そんな不安とは裏腹に放射線の治療はほんの2~3分で終わります。熱も痛みも感じません。ただ放射線を当てる箇所にレーザーポインターみたいな光を感じるだけでした。

この光も目はマスクで塞がっているので見えません。

 

『お疲れさまでした。』放射線技師がそう言って私の装具を外してベッドから起こしてくれました。

 

『へっ?!もう終わりですか?!』私が言うと

女性の技師が『はい。今日はおしまいです。お疲れ様でした。』と言ってくれました。

 

『はぁ・・・ありがとうございました。』私はそう言って再び待合室に向かいました。

暫くして看護師から私の名前が呼ばれました。

『〇〇さん何か違和感とか痛みとか気になる事は無いですか?!』と看護師は言いました。『はい・・・』まだ、本当に今日はこれで終わりなのと思っていた私はきょとんとしていた事でしょう。そして、『また明日同じ時刻に来てください』と言われて私は放射線治療質を後にしました。

 

散々不安だった割には楽勝じゃん。この時の私の心境はこうでした。一緒に入院していた患者さんからも放射線治療は楽だ痛くとも何ともないと聞いていた私は、

ここから大変な副作用に悩まされる事になるとは思いもしませんでした。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

 

私に強い力をくれたもの

今思えば、今から8か月前。私は、精神的にも肉体的にもどん底に居ました。

2018年11月の再発から2,3か月。3月から始まる放射線治療に向けての不安。毎日、精神安定剤の力を借りて何とか凌いでおりました。食欲もなく。病室に運ばれてきた食事に箸をつける事もなく下膳してもらっていました。その匂いだけで嗚咽が止まらず何種類もの吐き気止めを服用したり、点滴してもらったり、それでも嗚咽が止まる事はありませんでした。

 

年が明けたというのに自分は何をやってるんだ!。

 

不甲斐ない自分に対する自責の念と吐き気との闘いの日々でした。今思い出しても本当に辛かった。毎日が霞んで見え、心も体も正常じゃない。正に異常でした。

 

でも、そんな中で一つだけ私の中の希望と言うか光を見つける事が出来ました。

 

1月27日授業参観

 

私のスマホのスケジュールにはそう書いてありました。私の娘の授業参観の予定でした。娘が入学して以来、1度も出席を欠かしたことがない授業参観。

 

私は、このスケジュールを見つけたときに頑張って出席しよう!!!そう決意しました。そう思ったからなのか、少しづつですが体調も良くなり、少しづつ食欲も出てきました。本当に少しづつでしたが。

 

そして、妻に電話をしました。すると、今度の授業参観はいつもの授業参観と違って、娘は10歳になったので、二分の一成人式と言う特別な授業参観になるという事でした。

 

10年。

 

思えばあっという間だった10年間。

 

その反面。たった10歳の娘に寂しい思いをさせてるのかと思うと悔しくて申し訳なくて涙が止まりませんでした。

 

どんなに私が期待に胸を膨らませても、肝心の私がここ(病院)に居てはどうしようもないと、医師にどうしても1月27日は授業参観に出席したいと訴えました。医師の答えは、治療の合間になるので抵抗力が回復していたら退院できるという事でした。

 

頑張れ私の骨髄よ、頑張れ私の体よ!!!退院出来てなかったら元も子もない。出来るだけ食べて、出来るだけ病棟の廊下を歩きました。そして、直前の採血の結果。

 

医師の答えは『退院出来ますよ。』

 

嬉しかった。頑張って良かったと思いました。そして、1月27日学校に向かうと娘は私を見付けて嬉しそうに照れて私を見ていました。

 

『10年か・・・。もう10年か。』式が始まる前から涙をぐっとこらえました。

あんな小さかった子が10歳。他所の子もうちの子もどんどん大きくなってあっという間の10年でした。中には私を見付けるとうちの娘に『〇〇ちゃんのお父さん来たよ!』って報告してくれる子供も居ます。私が誰の父親であるか認識してくれているのです。嬉しいですね。

 

いよいよ、授業が始まり、『二分の一成人式』が始まりました。子供たち全員での感謝の言葉から始まり、歌が始まって、代表の子供たちの感謝の言葉と式は続き、各保護者に子供一人一人の感謝の言葉が感謝状と共に贈られました。教室の中は、涙涙涙でした。子供が『おかあさん、ありがとう』と言葉を詰まらせながら感謝状を渡せば、そのお母さんが『ありがとう』と泣きます。とても良い光景でした。

 

そしていよいようちの子の番となった時、私は妻にうちの番だと促すと妻は首を横に振り私の腰を押して促します。『えっ!?俺???』と戸惑いながら私が立ち上がると娘が私の前にやってきました。

 

『お父さん。いつもありがとう。』いつもパパと呼んでる娘がお父さんと呼ぶのです。

娘の言葉は続きます。

『お父さんいつもありがとう。これからも私があれが出来ない、これが出来ないと言っても大丈夫!大丈夫!と見守っていて下さい。』

 

思えば自転車の練習や色んな遊びを通じて私はずっと娘と一緒に経験をしました。私が手を貸すのは簡単ですが、そうはしませんでした。

 

私は何度も転ぶ娘を見ながら、『大丈夫大丈夫』って言いながらずっと見守っていました。それは、自信と勇気と達成感を知ってほしいからでした。

 

だからこの時の娘の言葉はとても嬉しかったんです。

 

 

 

私は、涙をぐっと堪えて『ありがとう。』と言って頭を撫でました。娘は少し恥ずかしそうに子供の列に戻りました。

 

それから、式は続きましたが私は感激のあまりかボーっとしてしまって覚えていません。

 

式が終わり、学校からの帰り道。今までの10年も頑張った、これからの10年も頑張んなきゃ!!!そう強く思いました。久しぶりに幸せな気持ちに包まれて娘の存在に家族の存在にあらためて感謝をした日でした。この日を境に私は、自分自身に喝を入れて、また、少しだけ健康に向けて階段を一段上がる事が出来たような気がします。

 

ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 

本当にありがとう。

 

学校から帰ってきた娘を抱きしめて、そう言いました。

 

娘は、少し嫌がりましたが、私の気持ちは精一杯伝える事が出来たと思います。

 

妻にもお礼を言って、この夜は久しぶりに穏やかに眠れたと思います。

 

これで、3月から行われる、すごく不安な放射線治療に頑張って向かえる様な気持ちになりました。

 

私にとって家族の存在は本当に大きい強い力を持っている存在というものを改めて感じた出来事でした。

 

 

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

 

今は休むが吉

去年は行けなかった初詣に今年は一時帰宅中だったので、家族3人で元旦から行くことが出来ました。

そして、恒例のおみくじを引きました。

 

そこに書いてあった事が、『今は休むが吉』でした。元気な時ならば、何で~?と思うでしょうが、何だか少しだけほっとしました。悪性リンパ腫と言う病気によって一年以上社会から遠ざかり、治療の日々が続いています。色んな事が頭をよぎっては、私は、自分を責めてしまいます。

『もう自分を責めるのを止めよう。』

そう思うようになりました。今年は、雑煮も食べれたし、おとそも少しだけ飲んだし、家族で初詣も行けたし。

 

良い年にしよう。

 

そう思えたお正月でした。退院中、色んな手助けをしてくれた家族に感謝です。

 

1月9日から入院しているベッドの脇には娘が選んでくれた『健康』の御守りがぶらさがってます。

 

頑張んなきゃ。

 

挫けそうな時はそれを見て、気持ちを奮い立たせてます。

 

頑張んなきゃ。

 

オレンジランプは療養中と言い聞かせながら。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございます。感謝致します。