(新)風邪だと思ったんですが。悪性リンパ腫闘病記

風邪だと思って病院に行って出された診断結果は『悪性リンパ腫』そこから始まった血液のがん、抗がん剤治療、副作用、不安な日々との闘い。 そんな私とその家族の日々を書き綴ります。

末梢造血幹細胞移植 その4 最後の闘い!!!

風邪だと思ったんですが

 

今回のブログはシリーズものです最初から読んでいただけたら幸いです。

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熱っぽかったから風邪かなと思ってたら、胸が苦しくなって、病院で胸のレントゲンを撮ってもらったら、心臓が肥大していると言われてあれよあれよと大きな病院を紹介されて、『悪性リンパ腫と言う血液の癌です』と宣告されて、絶望の淵に立ち、治療のお陰で1度は、寛解(がん細胞の働き、増殖が停滞している状態。と言われ喜び、その2か月後に再発して、再び絶望の淵に立った。しかも再発場所は、脳内。完全に終わったと思った。

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↑これは再発時のMRIの写真です。脳の白い部分が再発したがん細胞です。脳ががん細胞に圧迫されて猛烈な激痛がしました。ここから、抗がん剤治療を9回、放射線治療を25回、大量化学療法を2回行っております。

 

そして、今回最後の治療を行います。末梢造血幹細胞移植を自家移植するのです。先日自分の体から採取した造血幹細胞を私の体に戻すのです。

 

前回のR-MEAM療法が終わり、2日がたったこの日ついに私は、最後の治療法である大量化学療法の〆である造血幹細胞を自分の体に戻す処置を行います。ここまで徹底して、抗がん剤放射線を使ってがん細胞を徹底的に破壊壊滅しました。勿論、自分の良質な細胞も破壊されているのでこのままでは、死んでしまいます。ですから、予定通りに行ったん採取して冷凍保存していた造血幹細胞を体内に戻して(輸注と言います。)そして、移植した幹細胞が血管の流れに沿って骨髄に辿り着いて、そこで血液細胞の増殖を始めて白血球等が増えてくることを生着と言います。新たな血液を自分で作るようにするのです。自分で作れるようになるまでは、2週間から数か月かかるそうです。

胸はドキドキ高鳴るばかり緊張も最高潮。脇汗もびっしょりの緊張状態です。病室で待っていると看護師が血液の入ったバッグを持ってきました。冷凍してあった私の造血幹細胞が入ってる血液です。

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この右側がそうです。これをカテーテルを通じて私の体に戻していきます。(自家移植して行きます)

 自分の血液なので大きな副作用など無いと思ってましたが、やはり体外からの侵入者に対しては、敵であるので、攻撃をしてしまい、副作用が出る事もあるそうです。

移植した造血幹細胞が血管を通り骨髄に辿り着き、そこで増殖を始め、白血球や好中球などの血液の成分を作り出せる状態になった事を生着と言います。末梢造血幹細胞移植の場合は、通常2週間から1か月ほどで生着するそうです。私の場合は、自家移植なのでマッチングには、問題ないと思いますが、兄弟やドナーさんから頂いた造血幹細胞の場合は、自分の免疫力が入ってきた造血幹細胞を異物とみなして攻撃してしまい、未生着

だったり、生着不全を起こしてしまう場合があるそうです。

詳しくはこちら→造血幹細胞移植 | 希少がんセンター

それ以外にも色々な副作用を引き起こす場合がありますので、詳しくは医師看護師に相談して下さい。

折角生着した造血幹細胞にも自分の免疫細胞が異物と思い攻撃してしまう移植片対宿主病(GVHD)というものが発生する場合もあります。GVHDも急性GVHDと慢性GVHDとあり

急性の場合は、

皮膚に発疹が出ます。体の一部であったり全身に出る場合もあります。これが重症化すると、水疱や火傷のような症状になる場合があります。

それ以外にも下痢や下血腹痛、吐き気など起きる場合もあります。肝臓にも負担が出て黄疸や肝機能障害を起こす場合もありますのでその場合は早めに医師に申告した方が良いかと思います。

 

皮膚:身体の一部から全身に発疹がでます。重症化すると水疱や火傷のような状態になることもあります。
消化管:下痢、腹痛、吐き気などがでます。重症化すると大量の下痢や下血が起きることもあります。
肝臓:検査値のみの異常で無症状のことが多いですが、重症化すると黄疸を生じ、時に肝不全に至ることもあります。
「生着症候群」:ドナー細胞が生着する前後の時期に(発熱、皮疹、下痢、肝障害、肺炎などの全身的な炎症症状をきたします。重症の場合は命に関わることがあります。

 

また、慢性の場合は、生命の危機に陥る場合があるそうなので異変があれば、直ぐに医師看護師に報告することをお勧めします。

 

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私の場合も急性のGVHDが発症してしまい。全身に湿疹が発疹しました。蚊やダニに刺された噛まれたくらいでは、軟膏でも塗ってれば治まりますが、全身の湿疹は、とても辛いものでした。処方された軟膏で少しは痒みも治まるのですが、手が届かない場所などは、毎回看護師を呼んで軟膏を塗ってもらいました。でも、夜寝てる時に猛烈に痒くなったのでしょう、朝起きたら足がヒリヒリと痛み布団をめくってみたら、私の脚はこんな状態になっていました。

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汚らしい画像で申し訳ありませんが、寝てる間にかいてしまってた様で、脚は傷で血だらけになってました。シーツや布団にもあちこちに血が付着してしまっていて泣きたくなりました。

自分の血なのにね忘れたのかお前ら!!!

 

この湿疹以外には、特に大きな副作用もありませんでしたが、脚を地面に着くたびにビリビリと刺すような痛みが足に響き渡り、鎮痛剤なしでは生活できませんでした。足だけでは無く全身が痒くて痒くて、夜もあまり寝れませんでした。看護師も見かねて冷やすと痒み治まるかもと氷枕を持ってきてくれますが2,3個の氷枕じゃ糠に釘、猫に小判、暖簾に腕押し、焼石に水、馬の耳に念仏、骨折り損のくたびれ儲けで、完全に役不足です。いっそのこと冷蔵庫の中に入れて欲しいと思いました。個室だったらそれに近い状態にすることが出来ますが、この時は、一般病室に移動してたのでそれもかないません。兎に角薬を塗って我慢。それしかない日々でした。夜寝れないから、昼寝しようと思っても私以外の患者は年配の方ばかり、テレビをイヤホン無しで大音量で観ていたり、朝6時30分位から電動シェーバー使う人が居たり、夕方から面会時間終了の20時まで家族5,6人揃っての家族会議を病室で行っていたり。看護師に注意を促しても返事だけで一向に改善しない最悪な病室でした。でも、何とか耐えたある日、採血の結果を持って、主治医が私の病室に現れ『いつ退院します?』と訊くのです。『もう大丈夫なんですか?』と尋ねると主治医は『はい生着の兆候が出てるのでいつ退院していただいても良いですよ』夢にも思わなかった言葉、1か月くらいはかかるだろうと思ってた生着が2週間足らずで出来たようでした。私は、『家族に確認します。退院は、明日でもいいですか?』と尋ねました。主治医は、『大丈夫ですよ。確認が取れたら連絡くださいと言い残して病室を出ていきました。』もっと永くかかると思った今回の入院生活も私の体が頑張ってくれたおかげで思ったよりも早く退院することが出来そうだ。全身まだまだ痒いけど軟膏塗って我慢しよう!この部屋での生活よりもずっとましだ。私は急いで妻に連絡しました。『明日退院して良いって。迎え大丈夫?』そう言うと妻の答えは『うん、大丈夫』と嬉しい答えでした。

 

終わった~巣部手の治療も入院生活も今日で終わりだ・・・!

 

私は心の中で、こう叫びました。病室を出て、自動販売機で缶コーヒーを買って一気に飲み干しふーっと大きくため息をつきました。

 

これで帰れる。これで終わりだ。私は、コーヒー缶をごみ箱に捨てると、病棟のお礼参りに行きました。先ずは、NO5と掲げてある一番最初に入院した個室の病室。私は、その扉の前で『ありがとうございました』と言って頭を下げました。そして、共有のトイレにもお風呂にもシャワー室にも談話室にも頭を下げてお礼をしました。

 

ありがとうございました。もう2度と来ませんさようならと・・・。

 

やっとの思いで、やっと、やっと、やっと帰れる。やっと終わった。これで戻れるあの頃へこれで帰れるあの頃の俺に。普通に戻れる。やっと・・・。

 

頑張ったねご苦労さん。私はその晩体中をねぎらい感謝しました。約三年の治療が終わります。私は、今生きてます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。感謝いたします。

 

                              オレンジランプ

 

 

 

 

末梢造血幹細胞移植 その2 初めての?輸血。

 初めての輸血

 

今回のブログは、シリーズものです。リンクを貼っておきますので、その1から読んでいただけたら幸いです。

 

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CHASER療法を受けて2週間が過ぎた頃、ダルさと食欲の無さは、ピークを迎えてました。そしてこの日、金曜日(私の入院先では、月、水、金の朝に採血をする。)の朝の採血の結果・・・主治医が、病室に入ってきて、私に神妙そうに言った。『〇〇さん今朝の採血の結果なんですけど…』何かあったのかと私が、力なく『はぁ』と言うと、主治医は、検査結果の紙を見せながら、説明を始ました。『今回の抗がん剤治療前にも説明しましたが、血液成分が、概ね低く、特に血小板は、このままでは、まずいのでこの後から血小板の輸血をしていただきます。』・・・と、私は、そうなんですか!?分かりましたと不安げに伝えました。主治医と暫く今後についてはなし、血小板を輸血された場合に体に何か変化はあるのか?等の質問をしました。主治医は、『稀に痒みや発熱を訴える方がいらっしゃいますが。安心して良いですよ』と言ってくれました。しばらくすると看護師が『よろしくお願いしま~す。』と病室に入ってきました。看護師が押して来たカートの上には、何やら、黄色い液体が入った袋がありました。どう見ても、オレンジ100%ジュースって感じの袋でした。私が、『それなんですか?』と尋ねると看護師は『血小板です』とさらっと答えました。『これが血小板?オレンジジュースみたいだね』と私が言うと、『そうですね。ははははは』と看護師は、笑っていました。一方、私は、初めての輸血で心臓はバクバク、脇汗もたっぷりと搔いていた事でしょう。

これが血小板です。

 

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そして、看護師が手慣れた手つきで、私の首の静脈に繋がってるCVCカテーテルに黄色い血小板が入った血液バッグを接続しました。『〇〇さん、では、血小板の輸血を始めますね。』看護師は、そう言うと血小板が正しく輸血されるのを確認して病室を出ていきました。私は、血小板がカテーテルの中を流れているその流れている先端を目で追いながら、緊張していました。他人の血が私の中に入って来る。考えただけでもぞっとしました。私は、その血小板が流れているカテーテルを両の手で挟み込んで拝みました。(母さん、守ってね、助けてね、無事に輸血が終わりますようにお願いします。と7年前に亡くなった母に。私は、高校2年生の時から友人とよく献血をしていました。毎月していたのではないのでしょうか。だから、この時自分に言い聞かせました。(この血は、あの時に私が献血した血液の血小板だ!安心しろと。)そんな筈はありませんもう、20年近く前の話なのですから、でも私にとっては、輸血というものは、とても怖い存在だったのです。何故なら、私の母は、20歳の時に胆石の摘出手術をしたそうです。そしてその手術中に大量出血して、輸血を行ったそうです。そして、それが原因でC型肝炎になり、肝硬変になり、肝臓がんになって、7年前に他界したからです。当時と違って、輸血される血液の安全性や倫理観は、安全だと思ってます。でも、頭で分かってても、心と体は、不安でいっぱいでした。そんな輸血も軽くうたた寝してる間に終わり、発熱や痒み等もありませんでした。(良かった~。私は心から安堵しました。)(ありがとう母さん)そう言って、安堵したのかこのあと少し眠りました。心の中で、この後も何も起きませんようにと願いながら・・・。

 

正確に言うと私の輸血の初体験は、この時ではありません。私は、生後1年半で。突発性血小板紫斑病と言う血小板が極めて少なる病気になってしまったからです。記憶はありませんが、おそらくその時に輸血はされていると思います。血小板が少ないと、出血した際に血が止まりにくくなりますし、腕や足を柱などのぶつけてしまうと内出血がすぐに出来てしまうらしいのです。この病気は、20歳位までは治らないと言われたらしいですが、3歳頃には、治ったらしいです。だから、私の赤ちゃんの頃の写真は、病院の中の写真ばっかりで。包帯でぐるぐる巻きにされてる写真や、病院の院長先生がサンタクロースに扮装している写真などがアルバムに残ってます。幼い頃は。父や母に何で何でと何度も訊いた事を覚えてます。姉の写真は、家でハイハイしてたり遊んでたりする写真がアルバムに貼ってあるのですが、私のアルバムには、ありません。

 

あれから、30年以上経ってまた、この身が血液の病気に侵されようとは夢にも思いませんでした。

 

こうして、血小板の輸血が終わり、引き続き血中の成分の数字を上げるための皮下注射(フェィルグラスチム)も毎日接種しました。しかも、今回の抗がん剤治療は、今までとは投与の量が多い、大量投与を行ってるので、血液中の白血球、ヘモグロビン(赤血球の赤い色素主に酸素を運ぶ役割)、血小板の数値がいつもよりも大幅に減少してる為にこのフィルグラスチム皮下注射(筋肉注射)の薬剤の投与量も増えているのです。ただでさえ痛くて大人が悲鳴を上げるこの皮下注射。投与量が増えていると言う事は、当然注入される時間も永くなるので、痛む時間も永くなります。私も、『イタイ、イタイ、イタイ!!!』と何度も口走りました。これが毎日。退院の許可が出るまで続くのです。1週間?か10日か?それとも2週間か?・・・。

 

ですから、月曜日、水曜日、金曜日と週3回行われる血液検査の採血は、本当に必死の思いでした。この採血の結果によって、皮下注射も終わるし、退院の目安にもなるからです。ですから、採血がある前の晩には腰の辺りを触りながら血液を作る骨髄さん頑張って下さいとお願いしてました。抗がん剤の副作用である骨髄抑制(新しい血液を作る事が抑制される)が無くなって来ると、腰がドックンドックンと脈打つように鈍痛が始まるので、大体どういう状況かは、分かるのですけどね。この痛みがあるという事は、血液が作られだしたという証になるので、退院の日も近いという証なのです。

 

そして、今回の入院から1か月経った頃にようやく、血液成分の数値も戻り退院が決まりました。今回の入院は。抗がん剤投与から始まり、末梢造血幹細胞の採取、といつもよりも2週間ほど永い入院生活となりました。早く家に帰って美味しいご飯が食べたいと強く思いました。

 

今回の治療は、初めて使った抗がん剤もあり、抗がん剤の投与量も多かった為に胃に違和感が出て胃カメラを飲んだりといつもとは、違う事が頻発して、多くのストレスがありました。

 

今回、私が行う最後の治療法という末梢造血幹細胞移植というものは、大量化学療法を2度行いがん細胞の完全なる消滅を図る治療法です。でも、壊れるのはがん細胞だけではなく、自分の細胞も壊してしまう為に今回の治療後に薬の力で数値が上っている血液細胞を一旦採取して冷凍保存しておいて、最後の治療後に私の体にその血液を戻して、新たに血液を作り出してもらうと言う作戦です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

※私は、医師でも医学を学んだものでもありません。ここに綴ってあるものは、私の体験に基づいたものです。詳しい事は、医師や看護師に相談して下さい。ご理解いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

末梢造血幹細胞移植 その3 R-MEAM療法

 前回からまたずいぶんと更新の期間が離れてしまった.

読者の皆様には、大変申し訳なく思います。令和も2年目。しっかりとコツコツやって行かねばと思います。

今回のブログはシリーズものですその1、その2をまだ読んで無い方は、そちらから読んでいただければ幸いです。

 

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その①の後しばらくして、血球の値がある程度回復したら、いつもの様にいったん自宅へ帰されました。そして、約3週間後に再び末梢造血幹細胞移植の前に行う大量抗がん剤化学療法を受けるために、入院しました。今回も当然無菌室です。この治療で、白血球は0になるのですから、当然ですよね。ほんの少しの雑菌、ばい菌でも、感染してしまったら、命に係わるわけですからね。この入院が最後になると、私はかなりの決意を持って臨みました。

行った治療方法は、R-MEAM

療法です。この治療も前回のCHASERと同じ大量化学療法と言って多くの抗がん剤を投与します。今回使った抗がん剤は、リツキサンを1日間。シタラビンを4日間。エトポシドも4日間。そして、初めて使うアルケランが一日間。という大量の抗がん剤を投与する治療になります。前回のCHASERと同じで抗がん剤を大量に投与すれば、がん細胞も死滅しやすい状況になりますが、健康な良性の細胞も、大きなダメージを受けるという事になります。血球の値は,大分戻っておりますが、健康な人よりは、当然低い値です。しかも、数週間前にも大量化学療法を行ってるので、体の芯と言いますか、体は、とてもきつい状態で、食欲もあまりありませんでした。今回入院して、抗がん剤の投与も6日目まで来ました。そして迎えた7日目。今まで一度も使った事がないアルケランという抗がん剤を使う日が来ました。朝食の膳を下げる際に看護師から、『アルケランという抗がん剤をこの後に投与開始します。このアルケランという抗がん剤は、特に粘膜異常を起こしやすい抗がん剤なので、投与前に口内炎の予防として氷を30分ほど舐めてください』『そんなに・・・!分かりました。』私は、言われたとおりにコップに氷を入れてもらい30分ほど舐め続けました。

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アイスでもない氷を舐め続けるなんてこれまでの人生でもない事で、少しばかりの違和感がありました。しばらく舐めていると、舌がビリビリとしてきて感覚が無くなりました。それからしばらくして、アルケランの投与が始まりました。(今迄も色々な抗がん剤を投与してきたし、特に大きな副作用も無かった。不安ではあるけれど大丈夫だろう。)もう抗がん剤の投与も20回近くになり、いい意味でも悪い意味でもなれてしまった私。でも、この後に地獄を見るとは思いませんでした。アルケランを10時30分から投与を開始して30分ほどで終わり、昼食をとりました。そして、ベッドで横になってると、夕方前からお腹がグルグル言い出して、急な便意をもようしました。トイレは、個室なので、ベッドの横にあるので慌てる必要もないのですが、こんな急な便意は、暫く経験してなかったので、急いで便座に座って用を足しました。下痢でした。それも水分が多い水下痢でした。(何でだろう?水分多く摂った記憶もないし、便秘気味なので下剤は処方されているが、たくさん飲んだ記憶もない。・・・。という事は・・・。これは、副作用なんじゃ?!)用をたした後に、ナースコールを押して看護師を呼び今の現状を話しました。『アルケランで下痢になる人いるんですか?』看護師は『人によりますね。』と答えました。『そうなんですか。分かりました。晩ごはん食べると(下痢が)怖いので、晩御飯停めてもらって良いですか。』看護師は『明日の朝もですかと訊いて来ました。私は、頷きました。『この状態が終わるまでは、食事を停めてください』『分かりました。先生にも伝えときます。』と言い残して部屋を出ていきました。

看護師が出て行った後にも急いで便座に座りまた、用をたしました。この後も30分おきくらいに訪れれる便意と闘いつつ夜を迎えました。夜になっても便意は、衰えずに襲ってきました。幸い漏らすことはありませんでしたが、便意の度に起こされてしまいこの晩は、結局寝る事が出来ませんでした。朝になって、看護師さんの補助の仕事をする人が部屋に入ってきたので、私は、おむつを買ってきてくださいと頼みました。おむつさえあれば急な便意でも安心だし、夜も寝れるだろう。と思いました。暫くして買って来て下さったおむつを履きました。何十年ぶりのおむつです。記憶はありません。ごわごわとした履き心地が少し不快でした。でも、これが私を下痢を漏らすことから、その羞恥心から守ってくれる。安心して少しだけ眠る事が出来ました。夕方に看護師が私の部屋に入ってきて『」○○さんの食事を持ってきました。』と言いました。『私は、食事は止めてもらってるよ』と言いました。看護師は、『食事と言ってもこれなんですけどね、もう2日も何も食べていらっしゃらないので、先生の指示で、栄養剤を点滴することになりました。』そう言って首のカテーテルに栄養剤に繋がってるチューブを付けられました。(栄養剤?!どんな味がするんだろう?)勿論、血管に投与されてるので、味を知る事は出来ません。でも、こんな液体で体は持つのだろうか?私にまた、新たな疑問が湧きました。

f:id:orangelamp8:20200618021233j:plainでも、次の日の朝も、昼も夜も、次の日になってもお腹が空くと言う感覚は来ませんでした。相変わらず、水下痢の症状は、続いてるので不快感は治まりません。看護師の話によると私の便を検査した結果、何かしらの雑菌に感染しているという事でした。このお陰で、飲む薬の種類も増えて、その中には、舌の粘膜を保護するために軟膏を塗って30分そのままの状態にすると言う大きな不快感を感じる薬もありました。吐き気もするし、涎も出るし、本当に不快でした。そんな時でした。朝の薬を飲んだか確認しに来た看護師に『まだ飲んでないんですか!早く飲んでくださいよ』と少し面倒くさそうに言われたことに私は、憤慨し、いつもは何度かに分けて飲む薬を怒りに任せて一度に飲もうと、口に放り込みました。その瞬間『ぐ!!!っ』誤嚥です。

怒りに任せて飲みこもうとした薬は、食道ではなくて、気道に入ってしまい。のどに詰まってしまったのです。慌てて咳き込んで薬は、出てきましたが、のどの痛みと何か詰まっているという違和感は、消えませんでした。すぐに看護師を呼び事情を話すと、ゼリーの様な薬を持ってきてくれました。この薬がまた不快で、喉にドロッとした薬が通るのでその度に大きく嗚咽を上げてしまい。不快でした。水下痢も相変わらず続いておりもう2週間以上食事をしておりませんでした。そんな日々を過ごす中、好きな音楽を聴いたり、窓の外に見える復興中の熊本城に勇気をもらったりしながら、過ごしてました。

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そんな時です。私は、看護師に精神的に辛いと訴えました。看護師は、私の目を見てこう言ってくれました。『〇〇さん、あなたは、冬眠中のアナグマです。だから、いつかは。その穴から出て、普通にご飯食べたり、歩き回ったりできます。今は、穴の中でその日を待ってるんです。その日はきっと来ます。頑張りましょう。』面と向かって励まされることなどあまり経験したことない私は、この言葉が、スゥーッと入ってきました。(そうだ私は、アナグマだ!春を待とう。春はそこまで来ていると)看護師から励まされて、それまでジタバタしていた私は、この状況を呑み込んで、流れに任せる事にしました。すると別の看護師にも『〇〇さん、あと7日7日。あと7日。頑張れば、ご飯も普通に食べれるし、動き廻れるようになりますよ。だから、もう少し、辛いと思いますが、頑張りましょう。ここまで頑張って来られたんですから、あと7日。頑張りましょう。私たちも精一杯お手伝いしますから』と私は、胸がいっぱいになり、あと7日だ!!!頑張ろう!

と心に決めました。毎朝、指折り数えて、あと6日、あと3日、あと1日とまるで、遊園地にでも行く子供の様にその日を夢見て過ごしました。不快な舌に塗る軟膏も、喉の薬も一向に収まる気配がない便意にも必死に耐えながら指折り数えましたあと何日と。そして迎えた7日目。私は、がっくりと肩を落としながら便座に座ってました。看護師さんの嘘つき。7日と言ったくせに・・・。腹は立ちませんでしたが、7日と健気に待ってた自分が哀れだなって思って少し悲しくなりました。でも、その頃から明らかに便意の数は、減り、1日に10回ほど行ってたトイレにも2,3回になってました。もう少しだ。私は、そう言い聞かせて、この期間を耐え忍び、ついには水下痢も止まりました。私は、7日。って言ってくれた看護師さんに水下痢止まりました。7日ではありませんでしたがね。と言いました。私と看護師さんは、顔を見合わせてにやりと笑いました。それから体調も少しづつですが、良くなりました。そしていよいよ、以前採取して冷凍保存していた私の造血幹細胞移植の日取りも決まりました。CHASER療法と今回のR-MEAM療法という2回の大量化学療法を行った私は、自分では、血液細胞を作る事が出来ません。ですから。以前抜いて冷凍保存していた造血幹細胞という血液を製造する細胞を私の体に戻して自分の体で新たな血液細胞を作ってもらうと言う寸法です。これを生着と言います。私の場合は、自分の骨髄から造血幹細胞を採取できたので、自家移植と言います。自家移植以外にも姉弟や造血幹細胞を提供してくれるドナーさんからの血液細胞を使う方法もあります。でも、自家移植でない場合は、自分の血液の型と違ったりする場合がある為にたとえ型があったドナーさんの血液や兄弟の血液であっても拒絶反応が多く出たり、うまく生着しない場合があるそうです。

 

もうこの時は、本当に最後の治療の最後の行程なので自分の体にお願いするしかありません。私の体よ、戻った血液の細胞を拒絶するなよ!しっかりと生着して、清く、美しく、強靭で、良性な血液細胞を作り続けておくれと。毎日祈ってました。

 

いよいよ。次回、末梢造血幹細胞移植(自家移植)を行います。

今回は一番大変な副作用だったのですがこの副作用にも耐えうる一つ決断が私を救ってくれました。それは、私の今までの闘病の記憶、経験を同じ病気の人や似たような環境の人に伝える事によって、少しでも人を救う事が出来るのではないのかと思い始めたからです。その為には、資格もしくは証が必要なんじゃないかと思って、色んな方面で情報方を探しました。するとその中に特定非営利活動法人キャンサーネットジャパンという団体を見つけました。この団体は、多くのがんという病気に対する啓発運動を行っている団体です。そこのホームページを見に行くと近々【がんナビゲーター】というものの認定試験を行うと言うのです。私は、早速申し込みこの一番辛い時にがんについて改めて勉強して、試験日を待ちました。試験はインターネットを使って行われたので私は、病室で受験することが出来ました。そしてその結果がこれです。

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何とか試験に合格して認定証を頂くことが出来ました。これがあるからどうとかではなく、ひとつの努力の形、希望の光として、大切に持ってます。

このブログを書き始めた切っ掛けも、この試験を受けた動機も同じです。誰かの為に自分の経験を伝えたいその一心です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

 

 

 

 

 

末梢造血幹細胞移植 その1 造血幹細胞採取

まず最初に永い間ブログの更新を滞ってしまい読者の皆様すみませんでした。色々とありまして、ブログを描く気持ちになれないというか、気分になれませんでした。申し訳ございませんでした。このブログを途中で捨てるという事は、間違ってもありません。このブログは、私の人生の一部ですから。その点は、ご安心下さいませ オレンジランプ

では、久しぶりに綴って参ります。この話は、2018年の8月に遡ります。

遂に最後の戦闘開始

私は、この日から私の悪性リンパ腫の最後治療法である『抹消造血幹細胞移植』と言う治療の準備の為に2018年の8月13日に大学病院に入院しました。今回の治療の為に案内された病室は、無菌室。通称クリーンルームです。免疫力が極端に低くなる治療の場合に、案内される病室です。

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この部屋に案内されたという事は、大変な治療が始まるという事を意味してます。

これはどういう治療かと言いますと、先ずはいつものように抗がん剤を使った治療を行います。私の場合は、『  CHASER療法』と言うものを行いました。使った抗がん剤は、リツキサンが1日、エトポシドが3日間とシタラビンが2日間、エンドキサンが1日でした。抗がん剤投与後も特に大きな副作用は、ありませんでしたが、やっぱり気だるさはありましたので、ベッドの上でだらだらと過ごしていました。シタラビンの主な副作用・・・発熱、皮疹、等のアレルギー症状や筋肉痛、骨痛、胸痛、粘膜障害。目の炎症等・・・。でも、、、。やっぱり抗がん剤投与から2週間経った頃、やっぱり来ました。脱毛です。今迄も何度も抗がん剤治療をしているので、脱毛も何度も経験してるんですが、この時に抜け落ちた髪達は、あの苦しんだ放射線治療25回の時に抜け落ちてやっと生えて来てくれた髪達だったのです。放射線が終わっても中々生えてこなくて、放射線治療が終わって半年が経とうとするぐらいになってやっと生えて来てくれた髪達だったのです。だから、、、。

 

何度も経験してるのに

 

悲しかったです。

 

分かっていることなのに

 

悲しかったです。

 

頭では、理解してても心が受け入れてくれない。私のような病気の場合は、よくある事だと思います。だから余計に悔しさが込み上げてくるのです。涙も。自分が病気なのも悪性リンパ腫と言う命に係る病気だという事も、痛いほど分かってる。だから抗がん剤を使わないといけない事も理解してる。今回の治療で、トータル18回目の抗がん剤投与だもん。入れる時の激痛が嫌で嫌で仕方ない首の静脈から入れるCVC(central venous catheter)と言われる中心静脈カテーテルも18回入れた。でも、入れる時の痛みは、慣れない。カテーテルを入れた後は、いつも冷や汗というか脂汗で処置室のベッドがびっしょりに濡れていた。でも、もう少しで治療は、終わる。この闘いも終わる筈だ・・・。

悪性リンパ腫が根治すればの話だけど・・・。(これが最後の闘いだ!治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ)。私は、何時も自分に強く言い聞かせました。

 

そして、いつもの治療と同じように抗がん剤による骨髄抑制の影響で、下がっていた血中の養分、白血球、血小板、ヘモグロビン等を、いつもの皮下注射をすることで上昇させます。毎度のことながら、これが痛い痛い。しかもこの時からいつもより薬品の量が多くなったものだから、痛い時間が永くなりました(´;ω;`)ウゥゥ

 

皮下注射に耐える事2週間ほどで、血中の養分が回復しました。そして、いよいよ始まります。末梢造血幹細胞移植の準備です。何をするかというと、この治療は、大きく2回に分けて大量の抗がん剤の投与を行います。ですから、血中の養分も0ゼロになります。ゼロという事は、免疫力が無くなるという事なので、そのままの状態が続くと、色んな感染症等が発症してしまうリスクが極めて高くなるので、命を危険にさらすことになります。ですから、そうならない為に皮下注射のお陰で上昇した血液の養分をこの段階で、採取するのです。

詳しくは、こちら

日本骨髄バンク | 闘病に役立つ情報 - 骨髄・末梢血幹細胞移植とは

図を参考に作ってみました。

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そして、迎えた幹細胞採取の朝。

昨夜は、緊張のあまり、余り眠る事が出来ませんでした。なぜなら、この血液の養分の採取は、誰でも出来ると言う訳では、ないからです。以前同部屋になった患者さんもこの治療法を行う予定だったのに、3度の幹細胞採取を試みたそうですが、結局、充分な量を採取出来ずに、もう治療法は、無いと言われて退院されて行ったのを目の当たりにしていたからです。

(私も採れなかったらどうしよう・・・。チャンスは、3回らしい。お願いこの一回で採れてくれ!!!)

そう願いながら指定された場所に行くと看護師に、別の病棟の見た事のない色んな医療設備がある大きな部屋に案内されました。

『〇〇さん。それでは、採取をしていきます。そこのベッドに横になって下さい。』

そう看護師に言われると、私は、おどおどしながら、案内されたベッドに横になりました。(いよいよか・・・。助けてよお母さん。守ってよお母さん)私は、いつもの様に空の上の母に祈りました。『では、始めますね。』そう言っていつの間にかそこに居た医師が右足の付け根の静脈にに予め入れてあるカテーテルを何かの機械に取り付けました。この装置が血液の養分だけを摂って、それ以外の血液は、体内に戻す遠心分離機のようです。『では、始めます。』医師の合図の後に、グオングオンとベッド脇の装置が音を立て始めました。この採取をするにあたって、時間が30-40分ほどかかるので、好きなCDとかスマホとか持ってきても良い。と聞いていたので、私は、昔大好きだったジッタリンジンスマホにDLして、ヘッドフォンで聴いていました。アルバム1枚分を聴いた頃でしょうか、看護師さんが笑顔で『後5分位で終わりますよ』と言いに来ました。好きな音楽を聴いてリラックスしてた私ですが、この一言で、一気に緊張が

高まりました。

 

(大丈夫だったのだろうか?!ちゃんと幹細胞は、採取できたのだろうか?!必要量採れたのだろうか?!チャンスは、3回と聞いてるけど、何とかこの最初の一回で決めてくれ・・・!!!

 

横にある遠心分離機であろう機械音が止みました。

 

(あ・・・。終わったのか?!どうだったんだろう?)私は、心配で心配で固唾をのみ込みました。

 

『お疲れ様でした。』そう言って、医師は、私の元に寄ってきました。声がした方を見ると、さっきの医師が濁った血液の様なものが入った透明のビニール製であろうバッグを嬉しそうにくるくると回しながら何度も軽く空中に投げて、『採れた採れた!たっぷりと!3回分はあるよ。』と言いました。嬉しそうに。私は、慌てて『上手くいったんですか?』と訊きました。医師は『ほらこんなに3回分は、あるよ!』とまた嬉しそうに言いました。

 

『ふぅーーーー。』(良かった・・・。)私は、安堵して大きなため息をついたのを覚えています。

 

最後の治療の第一段階は、乗り越えれた。後は、もう一回大量抗がん剤治療をして、今抜いた血液たちを体に戻して、この血液達が頑張ってくれれば、治療は、終わりだ。

私のこの時の心境は、こうでした。

 

少し希望が湧いてきた。

 

2016年の11月に只の風邪だと思ってた発熱の原因が悪性リンパ腫と言う血液の癌だと宣告されて、8度の抗がん剤治療を行って、2017年の6月に退院して、9月にPETCT検査をして寛解と言われた。

 

寛解とは・・・。症状が一時的に軽くなったり,消えたりした状態です。このまま治る可能性もあります。場合によっては再発するかもしれない状態の事です。

 

そして、予想もしてなかった2017年の11月にまさかの再発。しかも脳内で・・・。

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この画像の白い部分ががん細胞です。これだけ大きな腫瘍が頭蓋骨の中に出来てしまってるのですから、そりゃあ、とんでもない頭痛もするし、吐き気もするし、記憶も無くなるよな・・・。その時の様子は、こちらを

orangelamp8.hatenadiary.jp

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最初に再発したと知って、脳内のMRIの写真を見た時は私は、終わったと思いました。

脳腫瘍・・・。俳優の高倉健さんも松方弘樹さんもこの病気で亡くなったと検索したら出てきました。私も今度は、死ぬのか?そう何度も思いました。

 

でも

 

この日、やっと助かるかもしれない。生きれるかもしれない。という希望が湧いてきました。もう少しだ。ここまで、来たんだ。もう少しだ。

 

私は、勇気を振り絞りながらこの、少しばかりの期待に胸を膨らませました。戻れるんだ!あの場所へ。いつも夢見ていた何処にでもある普通の生活。昼間一生懸命働いて、家に帰ったら『あーーーーーーーーーーーーっ』って言いながら風呂に入って、ご飯を家族で食べて、テレビを観て笑って家族揃って川の字になって寝る。

 

ごくごく当たり前の風景

 

でも、今の私には、特別な場所。

 

そこへ帰れる希望が芽生えた。

 

そんな日でした。

 

※このブログは、あくまでも私の体験談です。私は、医学を学んだこともありません。病気の事や治療方法、薬品の事など、詳しい事は専門家に聞いて下さい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。感謝いたします。

                             オレンジランプ

 

 

時はたゆまず流れる。

このブログを更新する様になるまで、長い時間がかかった。それは、ブログを更新するような精神状態では無かったからです。

 

1月の14日にブログを更新してから最近までとても永い辛いものでした。思えば寒い中震えながら更新をした事を覚えています。この間私は、抗がん剤治療を4回。放射線治療を25回終えています。その結果、私の中の悪性リンパ腫はどうなっているかと言いますと、、、。答えは分からないです。

 

何故分からないのか?

 

それは、、、。

 

医者が言うのです『分かりません』と。

 

再発時に脳の半分を占めていたがん細胞は、6月の造影剤MRI検査の結果を見るとその殆どが無くなりました。

 

医師の所見を見ると1.6mm程の何かが残っているそうです。

 

何か???

 

それががん細胞なのか?

 

がん細胞の跡なのか?

 

活動性があるがン細胞なのか?

 

活動性は無く死滅しているがん細胞なのか?

 

その答えが、、、

 

『分からない』そうなんです。

もう、訳が分かりません。私の今までの頑張りに意味がないと言われてるような気がしました。

 

このまま、ほったらかしにして活動が無いのを確認するのか?他の治療方法で完全に消滅させるのか?

 

本当に意味が分かりません。

 

肝心の医者が『分からない』と言うんですから、、、。

 

患者の私はもっと分かりません。

 

このままほったらかしにして、がん細胞だったらしきものの、活動が無いのを待つのか、それとも、待つ間に活動してまた、再発させてしまうのか?!

 

答えは、、、分からないです。

 

そして、7月の定期検診の時に医師が私に下した一つの提案が

 

『自家造血幹細胞移植』と言う治療法でした。

 

じか、、、ぞうけつかん、、、さいぼう、、、いしょく???

 

なんだそれ?!この長い入院中にそう言う治療をしている患者が何人かいらっしゃったので、言葉では、聞いたことありましたが、その内容は、全く知りませんでした。

 

詳しくは、こちらを⇩

造血幹細胞移植とは:[国立がん研究センター がん情報サービス 一般の方へ]

 

簡単に言いますと、先ず、大量化学療法『抗がん剤』でがん細胞及び血球などを破壊し、その後、薬品を使って血球値を上げて上がった状態の時に血液の細胞を採取しておき、その後、もう一度大量化学療法を行い、自力では、血球の値が上がる事が困難な為に予め抜いていた自分の血液を自分の体内に戻すと言う治療法らしいです。

 

これを書いている今でも、恐ろしいです。インターネットで情報を調べても、怖い情報が次々に出てきます。

 

先ず行う、大量化学療法というものも大量に抗がん剤を使用するために、抵抗力が落ちてしまい、あらゆる感染症に感染するリスクが伴います。私は、今までの治療の中で、幸いにも感染症になった事はありませんが、今までの治療とは違うという事を聞いているので、不安でしょうがありません。

 

抵抗力の低下、厚顔残治療後の造血幹細胞の採取が上手くいくのか、また、その後の大量抗がん剤療法を行う上で、また、感染のリスクが増えて、採取しておいた自分の血液細胞が上手く自分の体に適応しないなど、、、この治療法を知れば知るほど、不安は増して行きます。

 

でも、あの時にやっていれば良かった。出来るだけの事はやっておきたいという一心で私は医師のこの提案に賛成しました。その際に医師は何度も私の意思確認を行いました。

 

本当に良いんですね!と、何度も、、、。

 

その決断で良いんですねとも、、、。

 

私はその時『はい、、、。』と力なく答えました。決断したわけではない。私が、この悪性リンパ腫を根治する為には、もうこの方法しか選ぶ道が無かった。という事なんです。選ぶ余地は無かった、がん細胞を見過ごすのか?、ほったらかしで治ってたと安堵できるのか?、それとも、治療をする道があるならと、、、。正に苦渋の決断だったんです。

 

妻にも家族にも、娘にも、伝えました。

 

『今度の治療は、大変らしい。何があるか分からないから。俺は覚悟していると。』

 

娘にも伝えました。『パパ、今度の治療大変なんだ。頑張るけど、何かあったら、ごめんね。パパは〇〇の事大好きだよ!だから、絶対に頑張るから、応援してね』と。

 

娘は力強い眼差しで私を見据えて、『うん』と頷きました。

 

これで、私の腹は、括れました。(絶対に治してやる!!!)とあらためて思いました。

お盆中の8月15日私は新たな闘いの為に妻の運転する車で病院に向かいました。

 

命と根治を天秤に懸けた治療の為に・・・。

病院に着いて、通されたのは当然、無菌室でした。ここで先ず、約1か月の孤独な闘いが始まります。何事も起きませんように。そう祈って入りました。

頑張れ!私の心と体!!!とも、、、。

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最後まで読んでいただいてありがとうございました。感謝いたします。